ここ2年くらいで、世の中が求めているものがどんどん変わって
きているなと感じています。
以前は、「自分が何が得られるのか?」というところに価値が
あったのですが、最近は「自分がどう貢献できるのか?」という
ところに価値があるように思うのです。
つまり、「何かに貢献するために参加する」
という現象が起きています。
たとえば、大きなイベントをやると、参加者として参加したい、
という人よりも、ボランティアスタッフのほうが人気が出たり
します。
弊社で以前から開催しているチェンジ・デザイン・アカデミー
のような「社会貢献の仕方をお金を払って学ぶ」ということも
どんどん増えています(最近社会起業大学ができましたね!)。
「誰かのために何かをしたい」と思える人を増やす、
という想いで会社を作った私としては、
この社会の流れというのはとてもすばらしいと思います。
ただ、そういう想いの受け皿が少なく、
「何かしたいけれど、何から始めたらいいのか分からない」
という人も多いのかもしれません。
今、求められているのは、
そんな「想いを受け止める仕組み」ではないでしょうか。

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「病児保育」という言葉を聞いたことがありますか?
病気になった子供を預かってくれる保育サービスのことです。
なぜ病児保育が必要とされているのか?
普通の保育園は、子供が病気になったときにはあずかることが
できないのです。なので、子どもの調子が悪くなると速効で
電話がかかってきて、親が迎えにいく必要があります。
仕事を持つ親にとっては、突然かかってくる電話は恐怖の対象。
この「病児保育」、ずっと言葉は知っていたのですが、
なにがそんなに大変なのか、理解できていませんでした。
でも、宏美を見ていて、
「病児保育」って、ほんとーーーに必要だなぁと、
つくづく感じるようになりました。
なにせ、何をやっている最中かはまったく関係なしに
お呼びがかかるわけですから。子供のことは心配だし、
仕事は気にかかるしで、ほんとにたいへん。
でも、その大変さを、同じ女性であるわたしもぜんぜんわかって
いなかったということを考えると、もちろん仕組みも必要だし、
周囲の人の意識も変えていく必要があると感じます。
「病児保育」を広めているフローレンスさん、
ぜひ頑張ってください!とエールを送りたくなりました★
リオのスピーチを聞いて、考えた。
果たして、わたしたちは15年間の間になにをやっていたんだろうか?
あの頃から、わかっていた危機は、なにひとつ変わらずそこにある。
いや、むしろ大きくなっているくらいだ。
あい変わらず無駄遣いをし、
あい変わらず治し方のわからないものを壊し続け、
あい変わらず自分たちの「今」を優先してきた。
でも一方で、やっぱりこういうことって大切だよね、と感じる人も
確かに増えていると思う。
だからたとえば、あのスピーチを聞いて、なるほどねって思う人も
増えていると思う。
そう考えると、15年前のあのスピーチは社会の意識の15年先を
いっていたということなのかもしれない。
場合によったら、15年どころではなく、もっと先を。
さて、では今現在。
社会の意識の15年先をいくスピーチがあるとしたら、
いったいそこでは何が語られ、何が訴えられているだろう?
15年先の未来で、ようやく社会が追いついてくるような、
そんな思想があるとしたら、それはいったいなんだろう?
香織が主催者のひとりとして開催したThink the Earthという
イベントに出席した。
「不都合な真実」をはじめとして、最近盛り上がっている
地球環境やエコの話題をいろんな視点から考えてみるという趣旨
でした。
たとえば、「不都合な真実」で触れられているようなことは、
すでに20年前から変わらず言われ続けていたということ。
たとえば、レジ袋の削減は、物理的なインパクトは少ないけれど、
意識的なインパクトが大きいということ。
たとえば、割り箸には角材の余りなどで正しく作られた割り箸と、
輸入材でそれだけのために伐採が行われた割り箸があるということ。
いつもとはちょっと違う視点で眺めることができたように思います。
一方で、いくつか自分の中で湧き上がってきた思いがあり、
それらの点についてはおおいに考えさせられています。
そのうちのひとつが、、エコってやっぱりぜいたくなのか?という点。
お話の中で、北欧から輸入した薪ストーブの話が出たのですが、
なんと取り付け含めて数十万円。。。どう考えても、スタイルに
お金を出せる人しか手に入れられないものです。
もちろんこれは極端な例だけど、本質も含んでいるような気がした。
昔は、地球環境を守ろう!みたいな運動がかっこ悪い時期があって、
最近それが「スタイルとしてのエコ」として確立されてきた。
でも、それだけでほんとうにいいのかな?
「かっこいいからやる」というのは入り口としてはありだろう。
まだまだそれも大切。
でも、いつまでもそれだけではダメなのではないか?
とりわけ、「もうほんとに必要だと思っているひと」
「実際になんとかしようと思っているひと」が
求めているものは、もっと先にあるような気がしてならない。
それは、誤解を恐れずに書くならば、
広告代理店的なかっこよさではなくて。
もっと、愚直で、まっすぐで、
痛いほど誠実な、そういうなにか。
「不都合な真実」を見に行きました。
遅ればせながら。
とりあえず、多くの人が書いているようなことは書きません。
ひとりひとりのアクションが大切ってなことは、
もう十分に語られていると思いますので。
それ以外の部分で、わたしが感じたこと。
まず、環境ということに関して言うと、今までのように
「地球環境がヤバイ」ということではなく、
「あんたにとってヤバイ」という視点に切り替わっていた
ところが的を射ていた。
環境問題を語るときに、「地球が危ない」とか「地球に優しく」
というような表現はナンセンスだ。だって、地球そのものは
温度が上がっても、人類がいなくなっても、変わらずそこに
あり続けるだろうから。さらに言えば、太陽にも地球にも寿命
があって、永遠に続くことはいずれにしてもありえないから。
ところが、今までのコンテクストの多くは、「地球を守ろう」
というスタンスで語られていて、そのメッセージは環境擁護派
の人にはおおいに受け入れられても、「別に興味ない派」の人
を変えることは決してできなかったというのが現実ではない
だろうか。
そして、この映画はこれらのコンテクストを変えた。
つまり、
「地球が危ない」のではなく、
「あなたが危ない」というコンテクストに。
だからこそ、今まで届かなかった層の人たちの心に、
メッセージが届き始めたのだ。
「視野を広げて、環境を自分のこととして捉えましょう!」
というメッセージは美しい。
それができる人は、そうすればいい。
でも、そうじゃない人は・・・?
人間の身勝手さを否定しても、なにも解決しない。
人間のすばらしさを、愛の偉大さを信じるだけではなく。
身勝手な自分を、身勝手な人間を、認めたうえでできることがある。
わたしにしては珍しく、怒りモードであります。
夫婦別姓について、「容認派減り、反対派増える」という世論調査の
結果が出たようです。
いやーーー、ほんとに、理解を超えてますな。
ひとりの人間が、名前をいかに大切にできるか?ということを
所詮、佐藤さんや鈴木さんには理解できないということなのでしょうか。
「須子はるか」は、「須子はるか」で一語です。
「おこのみやき」を「おこの」と「みやき」で区切れないのと
同じように、須子はるかも区切れません!
別にね、「全員別姓にすべきだ」と言っているわけじゃないのだから、
別姓にしたい人はする、でよいではないですか。
「子供がかわいそう」「家族の絆が薄れる」という意見もありますが、
再婚などで家族の中に別姓がある夫婦の子供は、実際こんなことを
言ってまっせ。
「名字がいっしょでないだけで家族でないのなら、
そんな家庭は名字がいっしょであっても幸せになれない」(17歳男)
「結婚する前だって、姓が別々で仲良くしているのに、結婚してから
名字が別々でつながりがなくなるなんて、そんなことばかげていると
おもいます。」(12歳女)
だいたい、女の子が結婚して姓が変わったら、今度は親との絆が
薄れるとでも言うのでしょうか。。。
また、別姓だと離婚しやすくなるとかなんとかも言われるみたいですが、
「名前を戻すのがいやだから離婚しない」なんて、そんな理由で
仮面夫婦を続けるなんて、これまた大きな本末転倒です。
何がいいたいかというと。
1)「夫婦同姓の強制」を支持する多くの意見には本質が伴って
いないということを言いたい。
本物の人と人との絆を理解している人ならば、
夫婦別姓の問題と、家族の絆の問題を一緒にするわけがない。
離婚の話も同様だ。
「同姓がすべての家族に強制されるべき本質的な理由」があるのなら
ぜひお聞かせいただきたいところである。
2)そもそも多数決で決めるべきような問題なのかどうかを問いたい。
自分が「同姓にするか」「別姓にするか」を自分や自分の関係者の間で
決めるということは理解できる。が、「別姓にしたい」という赤の他人
のことにまで、「いや、それは家族の絆が薄れるからやめるべきだ」
なんて、どう考えても余計なお世話ではなかろうか。
一方、別姓派は「すべての人が別姓にすべき」なんて他人のことに
口出ししてるわけじゃないのである。「自分は変えたい」という人は、
どうぞどうぞ。ぜひ変えてください。
3)やっぱり「須子はるか」は区切れない、と言いたい。
ええ、区切れないんです。
「ロールモデル」という言葉をよく耳にする。
手本となるような型であり、
「将来こんな風になりたいなぁ」という憧れ。
実はなんとなく、この言葉を聞くたびに、違和感が体を走りまわる。
世の中の見解とはかなり違うかもしれないけど、
今日は、あえてアンチテーゼを提示したいとおもう。
ロールモデルをひたすら追いかけるのは、なんだかさびしい。
自分の中に基準がなくて、誰かが作ってくれた基準が大切だから。
「あの人みたいになりたい」という気持ちは純粋かもしれないけど。
ほんとうは、自分の可能性を狭めているのかもしれない。
「あの人はもっているけど、わたしはもっていない幸せ」を
探し求めてしまうことにならないか。
誰一人、同じひとなんていないのに。
・・・そうか。
ひとりじゃなきゃいいのかもね。いろんな人のいいところを
組み合わせて、複数の人から学ぶということは確かによくある。
「誰かから学ぶこと」と「憧れること」が一緒になって見えるから
「ロールモデル」という言葉に違和感があるのかな。
世の中には、「ロールモデル」がたぶん必要なんだろうと思う。
いわゆる「前例」や「憧れの対象」ってものが。
世の中が進化していくために必要で、それ自体はまったく否定しない。
でも、正直を言えば。
わたしは「ロールモデル」からは自由でいたいよ。
「ロールモデル」の誰かを目指したいとは思わない。
また、誰かの「ロールモデル」になりたいとも思わない。
目指したり、目指されたりするんじゃなくて、
ただ誰かのために、一生懸命、生きたいよ。
それだけで十分だ。
十分、幸せになれる。
電車の中吊りで母校の名前が出ていたので、思わずAERAを購入。
筑波大学附属の同窓生ネットワークが強い、卒業生が活躍している、
という風に出ていました。
たしかに先日のMISCOの講演会でも、「わたしも附属生だったんです」
と声をかけられたりしたので、仲間意識は比較的強いのかもしれません。
その昔は師範学校!それから教育大学附属、そして筑波大学附属へと
変遷してきているだけあって、歴史が垣間見られる場面も多い。
たとえば、部活動の名前。
サッカー部→蹴球部(シュウキュウブ)
女子バレー部→女子排球部→女排(ジョハイ)
男子軟式テニス部→男子軟式庭球部→男軟(ダンナン)
女子バスケ部→女子籠球部→女籠(ジョロウ)
活用例としては、「女籠のキャプテン●●です」など。
あと、変な用語があるんですよね。
たとえば寄り道をすることを「そばる」といいます。
なぜなら、その昔学校に向かう坂の途中にソバ屋さんがあり、
そこに立ち寄ることをさしていたから。
「みなさん、そばりはいけませんよ」みたいな。
「今日、そばってく?」的な。
・・・まぁそれはさておき。
もう、ほんとうにたくさんの、すばらしいことを学んだのです。
それは、偏差値がどうこうという世界とはまったく切り離された部分で。
わたしが附属で得た一番大きなことは、
「どこまでもおおらかに、そしてほんとうの意味で自由に学ぶ」
ということを身をもって体験できたことかもしれません。
そして、それは。
今思えば、先生たちが誰よりもおおらかに、自分が教えたいと信じる
ことを生徒に教えることができる環境だった、ということがひとつの
欠くべからざる要素だったのだと思う。
先生に夢があり、想いがあること。
教育は、そこからしか変わらないのかもしれない。
わたしたちが、初めてメディアにのった記事。
日経新聞の「ジェネレーションY」がいつの間にか本になっていました。
まだ半年くらいしかたっていないのに、なんだかものすごく懐かしい。
記事が写真と一緒にそのまま掲載されているというスタイルですが、
こうしてまとまってみると非常に面白い記事ばかりです。
本の中で、ジェネレーションYとは、『真の団塊Jr世代』だと書いてい
ます。すなわち、今までの定義による「団塊Jr」は、確かに人数の分布
としては合致するのだけれども、母親より父親が若干年上の場合が多い
ということから、その多くは父親が戦争を知っている世代。
一方、1975年生まれ以降の世代は、父親も母親も戦争を知らず、異なる
価値観の中で育ってきた世代、すなわち真の団塊Jrというべき存在だと
いうのです。
「今の若者は・・・」という人たちの視点を覆すようなデータや、人の
サンプルがたくさんでてきて、読んでいて「そうそう」と思うことが
しばしば。
自分サイズで生きている。
そんな感じ。
今の若者が弱くて脆いだなんておもわない。
むしろ。弱さや脆さに向き合い、受け入れることを知った世代。
そんな気がした。
今日はクリスマスイブですね★
家族や友達とプレゼントを渡しあって、とってもハッピーな一日。
でも、なんだかこれでほんとうにいいのかなって。
そういう風に毎年感じます。
それは、ぞっとするほどの過剰消費。
特にアメリカでは、親が子供にプレゼントを渡したり、恋人同士がプレ
ゼントを渡す以上に、自分をとりまくおよそすべての人にプレゼントを
渡します。25日までは、親戚一同から届いたプレゼントが山のように
ツリーの下に積み上げられ、ほんとうに足の踏み場もないほど。
選ぶほうも、選ぶほうで、とにかく数を揃えなければならないので、
ほんとうに心を込めて選ぶ余裕はありません。車でショッピングモール
にのりつけ、「Christmas Shopping」をしまくるわけです。
普段だったら絶対に買わないようなくだらないおもちゃや、自分では
身につけないようなフレグランス。誰にあげても許されるようなバス
グッズなどなど、ほんとうに、「これでもか!」というくらい買って、
買って、買い続けるのです。
そして、お互いにプレゼントをもらっても、自分のために時間をかけて
選ばれたものではないプレゼントは、すぐにわかるし、それが心から
こみ上げる喜びをもたらすことはない。
プレゼントを贈りあうことはとても素敵なことだと思います。
でも、心の伴わないプレゼントを買っては、あげっぱなしにするのは
もうやめてほしい。去年なにを贈ったか、当の本人が思い出せない
ようなギフトならいらない。
それくらいなら、ひとりひとりに素敵な言葉を贈りたい。
その人のことを心で感じて生まれ出る透明な言葉を贈りたい。
聞いたその人が一生忘れられないような言葉を贈りたい。
先日聞いた話を思い出した。
世界中すべての人が、平均的なアメリカ人と同じ生活をするためには
地球5個分以上の資源が必要。そして、同じように平均的な日本人と
同じ生活をするならば2.7個分の地球が必要。
私たちにしかできないことがある。
幸せな一日だからこそ、考えてもいいとおもう。
イースター島の謎ってご存知ですか?
私もイースター島へ行った友人に初めて聞きました。気になったので
いろいろ調べてみたところ、以下のストーリーが一番通説になっている
ようです。
とても考えさせれるお話です。
***
その昔イースター島には、少数派で支配階級の長耳(ながみみ)族と
多数派で被支配階級の短耳(みじかみみ)族がいた。二つの部族は
お互い、別々の島から渡って来たらしかった。
やがて長耳族は力を持ち、短耳族を支配するようになった。ご多分に
漏れず、彼らは自分たちの力の象徴を捜し求めたのだが、この象徴が
今日モアイと呼ばれている建造物。
長耳族は、短耳族に島の石切り場から石を切り出し、モアイを彫らせ、
運ばせ続けた。その数は増え続け、その大きさはどんどん大きくなって
いった。ときには石切り場から運び出せないほどの大きさに。
そして、モアイ建立ブームが激化する中でひとつの問題が起こってきた。
それは、モアイを運ぶためのコロや船の建築材料として木が大量に必要
となったのだ。豊かにあった椰子の木は次々と切り倒され、より大きな
モアイのために費やされた。
際限もなく肥大化するモアイたち。
その向こうに何があったのか?
島の木が切り倒されると、船が作れなくなり、魚が捕れなくなった。
また、強い雨が土を押し流し、野菜が作れなくなった。島は深刻な食糧
不足に見舞われ、モアイ建造の重労働で抑圧されていた短耳族はつい
に蜂起を試みる。
ここに「モアイ倒し戦争」が勃発するのだ。
食料を奪い、権力の象徴であるモアイを倒し、人を殺す武器が作られて
殺し合いが始まった。数万人の人口は、数百人にまで減り、すべての
モアイは倒し尽くされた。
生き残ったわずかの人々は、かろうじて島の歴史、モアイの意味、宗教、
祭りの意味などを『ロンゴロンゴ』と言う石にラパヌイ文字で書き残す
だけの存在となった。
イースター島に生まれた文明は、自然破壊と部族抗争によって終焉を迎え
たけれど、今の私たちの生活がイースター島がたどった運命の再演でない
と言えるだろうか?
モアイには、「モ」が未来、「アイ」が生きる。
すなわち「未来に生きる」という意味があるという。
イースター島の住人たちは、自らの魂の再生を祈って「未来に生きる」
という名をつけたのだろうと思うが、今この社会に投げかけられている
メッセージと不思議なほどに符号が合う。
「未来に生きる」
そのことの意味を、もっと真剣に考えたい。
[どうか★応援してね★]
「エスニクラブ」という在日外国人との交流団体が企画したイベントに
参加しました。その名も、「ここが変だよ日本人!ここが素敵ね日本人!」
パネリストのうち2名は友人だったので、なんだかくすぐったい感じ。
特にチャイナ★サロンで先生をしている静さんとは仲良しなので楽しみ
にしていました。
静さんが日本に来たきっかけを聞いて、改めてびっくり。「日本文学が
好きだったから」ということで、大学でも文学を勉強していたそうです。
同じようにインドからいらっしゃったラノジットさんも日本の伝統的な
美のセンスに惹かれた、といいます。香港から来ていた朱さんは、
アニメや漫画が大好きで興味を持ったそうです。
「ソフトパワー」
そんな言葉が頭に浮かんできました。ソフトパワーとは、ハーバード
大学の国際政治学者ジョセフ・ナイが提唱し始めた概念で、軍事や政治
経済のようなハードパワーに対して、文化や政治的価値観、政策などの
影響力を指します。
この場合の「パワー」とは、相手の判断や選択を自分の望みどおりに
させてしまう力。例えば個人の例を考えてみるとわかりやすいのですが、
上司の意向に従うのは立場や政治的背景によるハードパワーの力です。
雑誌でお気に入りのモデルが着るジャケットを買ってしまうのはソフト
パワーの力です。ジャケットを買うときに、特別にそのモデルさんに
強制されたわけでもなく、取引をしたわけでもないのに、行動が影響を
受けてしまう。
そして、この状態が国家レベルでも起こりえると考えたのがジョセフ・
ナイなのです。たとえば、世界中がアメリカを自由の天地として憧れて
きたのは、その軍事力というよりも国家の理念であり、社会の仕組みで
あり、文化そのもの。そしてそうした目に見えない魅力によっても、
多くの人々に影響を与え、自発的に行動を変えることができるのです。
もう一つ有名な例でよくひかれるのが日本の漫画やアニメのコンテンツ
パワー。世界中で孫悟空がカメハメ波を炸裂させていることは、少なか
らず日本という国そのものに対する憧れや尊敬の気持ちに結びついて
いることでしょう。
ソフトパワーを一言でいえば、
自分のもつ魅力によって、
相手の行動に影響を与え、
望む結果を得る力。
こうした力は個人、国家のレベルの間にある企業にも当てはめることが
できそうです。企業理念や教育システム、会社の風土に惹かれて入社を
決めるという新入社員も多いはず。また、オーガニックの素材のみを
使います、という理念に共感して購買を決める消費者もいます。
企業においては、その規模や取り扱う商品の価格設定といったハード
パワー以上に、その企業が持つソフトパワーが消費者に、従業員に、
取引先に大きな影響を与える時代になってきたような気がします。
ジョセフ・ナイが「ソフトパワー」と呼んだモノ。
それを私は「セクシー」と呼んでいるのかもしれない。
・・・あ、言いすぎ?
[どうか★応援してね★]
最近の『夢』ブームについて。
もはや猫も杓子も『夢』ですねぇ。セミナーも本も数多い。
自分のブログのタイトルが『夢を実現させる起業日記』なので他人の
ことは言えませんが(笑)。
しかし、みんながあんまり夢、夢、と言うので今度は「夢が見つから
ないんです」とかっていう人が出てくる。なんだかちょっと本末転倒っ
ぽい感じです。別になければないでいいんじゃないかって。そう思っ
たりもします。少なくとも他人がとやかく言うことじゃない。あるいは、
本当は実現したいことがあるのになんだか「夢」っていうのは、キレイ
で大きくて、意義のあるものじゃないといけないんだっていう風に思っ
てしまったり。
「夢=実現させたいこと」と考えたとき、
どんなレベルの欲求がきっかけでもいいと思う。
いくつあってもいいと思う。
ただ、自分が本気で「実現させたい!」と強く願ったとき。
初めてその欲求が「夢」に変わる。
そういうものなのかもしれません。
[本日の日記に★投げキッス★]
「これから働き方はどう変わるのか - すべての人々が「社会起業家」となる時代」
田坂 広志
【こんな人にお勧め】
自分の今の職場で何かが足りないと思われる方、熱い志や夢を持っていて
実現に向かって歩んでいる方。
【立ち読み書評】
今年の夏に講演を拝聴させていただいてから、すっかり私の崇拝対象に
なっている田坂氏の新著。
あまりにも多くの素晴らしいメッセージがこめられていたため、少し長くなる
かもしれないがひとつひとつ取り上げていきたいと思う。
「仕事の報酬は仕事そのものになりうる」
目に見える給料や地位などの報酬に加えて、プロとしての能力習得、
働き甲斐のある仕事そのもの、また人間的な成長など目に見えない報酬
が存在する。
「働くとは、傍を楽にすること」
周りの人が楽になれるような動きをすること、社会に対して貢献することが
本来の「働く」の意味。
「営利企業には社会貢献が求められ、非営利組織には事業性が求められる」
これからは、企業や組織は本来社会に貢献するために存在するという認識、
そして社会貢献をするためにこそ事業を通して適切な利益をあげていくこ
とが重要になってくる。
「起業家とは必ずしも会社を起こす人ではなく、なんらかの変革を起こす
もの、イノベーターである」
会社の中で何か新しい提案をすること、身の回りの問題を自分の視点
で解決方法を見つけていくことなども含まれる。
「社会起業家に求められる資質とは、志と人間的魅力」
何度失敗しても挑戦し続けることができる、自分を支えることのできる志
や使命感が必要。また使える資源が限られているため、人間的魅力と
共感力をもって周囲に人が集まる人になること。
「人間は自分を癒すことができないと目の前の世界を癒したくなる」
自分の人間としての成長の課題から逃避するために社会貢献を語って
いないか?
「自分を変えられない人は社会を変えることはできない」
自己変革の重要性。
「共感力とは、相手の共感を得る力ではない」
それは、相手に共感する力である。
「社会起業家に求められる強さとは、勝ち残る強さ、失敗しない強さではない」
失敗しても必ず立ち上がる強さであり、失敗を通じて成長し続ける強さで
ある。生涯にわたって社会変革の歩みを続ける志あってこそ可能となる。
また、周囲もその人が勝ち残れそうだから助けるのではない。その人が決して
歩みを止めないだろうと思うからこそ応援する。
「社会起業家とは、いつかやってくる良き社会のために、その礎となることを
静かな喜びとともに覚悟しているものである」
己一代で終わる野心ではなく、次の世代へ引き継いでいくための祈り。
田坂さんの文章に感動させられるのは、その言葉選びの丁寧さ、的確さ、
そして言葉に込められた想いの強さ。彼の文章、お話を伺うとき、私の頭
には必ず「言霊」という単語がよぎります。
そして、物事の二面性を鮮やかに見せてくれるその視点の変え方の鋭さに
出会うたびに、裏返した言葉の中により深い真実を見つけ出す驚きを
禁じえないのです。

日経スペシャル「ガイアの夜明け」で「第二の開国!移民国家ニッポン
への道」という特集を組んでいた。心をぐわっと動かされた。
▼大田区にある機械メーカー「三美テックス」では、中国人留学生を中心に、
毎年積極的に外国人を採用している。祝さんという上海出身で日本の
大学を卒業された方を中心に話は進むのだが、とにかく完璧な日本語と
さわやか好青年ぶりに脱帽。この番組をみて、彼のような人材を欲しいと
思う経営者は多いことだろう。ただ、一歩を踏み出せるかどうか、その違い
なのだ。日本の経営者よ、目覚めよ!
▼移民先進国オーストラリア
早くから労働人口の減少対策として、移民の受け入れに積極的なオースト
ラリア。様々なケースに応じて法律が細かく整備され、現在では、労働人口
のなんと4人に1人は外国人だ。
オーストラリアの学校で、あらゆる肌の色、紙の色をした子供たちが、混ざり
あって、一緒に中国語を学んだり、ともに歌を歌っている姿を見て、涙が
出そうになった。「みんなルーツは違うけれど、でも共に暮らし、共に夢をみる」
なぜそれが多くの場所で実現できないのだろう。何が邪魔をしているの?
▼外国人を雇っている保育園
8人の国籍も見た目もまったく異なる外国籍の人材を子供の保育にあてて
いる。アメリカ出身の黒人の方が、「最初にここに来たとき、子供たちが
驚いて聞いてきたよ。なぜ肌の色が黒いの?ってね」と。それはそうだろう。
子供は大人より率直だ。
そして、その後彼が子供に伝えたという言葉が私を感動させた。
「My heart is just like yours. We look different, but it's me. This
is just the way the God made me!」
小さな子供のころからこんな大人に囲まれて育ったら、きっと「違い」に価値
を感じる、そして日本以外の場所にも自然に意識を向けることのできる
人に育つだろう。単に語学が堪能な言葉だけの国際人ではなく、知識に
溺れる頭だけの国際人ではなく、相手のことを同じ立場で自然に思い
やることのできるほんとうの国際人に。
▼移民国家ニッポンへの道
1990年の入管法改正を期に、一挙に流入した「日系外国人」。彼らを
受け入れて10年以上が経った自治体も多い。そこには移民国家ニッポンの
モデルケースを見ることができる。日系ブラジル人を中心に多くの外国人が
働き、暮らす群馬県太田市と大泉町の今。
多くのブラジル人が住む町で、日本人住民との摩擦も絶えることがない。
「ここは日本なんだから」と言い放つ主婦。そうだ、ここは日本だ。でも、
「外国人にとっても住みやすい日本」であって何がいけないか。今までの
日本とこれからの日本、明らかに時代に合わせて変わっていくべきなのに。
「どうして?」
法律が整備されてないから。政府が関心を寄せていないから。
・・・ほんとうにそれだけ?
それは、わたしたちの心の中に巣食っている新しいものを受け入れることを
拒否する気持ち、不安感、自信のなさの裏返し。自分の国や文化、社会
の仕組みや経済基盤に対して心から誇りに思っているのならば、外からの
訪問者は歓迎するはずなのに。
日本人よ、その心に誇りと自信を取り戻せ!そして、まっすぐに世界を見つめ、
自分たちにできることを考えよう。
私もその一歩を生み出したい。