わたしはよく「もしも」を考える。
それは、将来に対する不安の「もしも」ではなくて、
自分がまったく別のものだったら?という「もしも」の連なり。
たとえば、もし自分がブラジルの貧しい貧しい場所で生まれていたら?
教育も受けず、暴力に囲まれ、見捨てられたように育っていたら?
何かをしたい、という気力を持つことがあっただろうか?
たとえば、もし自分が戦時中の日本にいたら?
天皇は神であり、国のために死ぬことが美しいと教えられていたら?
果たして、平和に一片でも価値を見出していただろうか?
たとえば、もし自分がネルソン・マンデラ氏みたいに、
自分の思想を守るために何十年も投獄されていたら?
それでもなお、正しいことを正しいと言えただろうか?
そんなふうに。つくづく、考える。
・・・いったい、なぜだろうか?
なぜ、わたしはそんな「もしも」を考えてしまうのだろう?
答えは簡単だ。
わたしは、今の自分が、「誰かのために」なんて自然と考えるのは、
極めて恵まれた環境の連続がなしたものであって、そもそもの人間
としての自分は弱くて、ずるくて、臆病であることを知っているからだ。
だから。
怖いのだ。
そして、「もしも」を考えることは、世に言う「怖いもの見たさ」
みたいなもので、自分自身のほんとうの姿をわずかでも垣間見たい
がためにやっていることなのだろうと思う。
環境に左右されない、
ただひとつの自分なんてものは果たして存在するのだろうか?

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こんばんは。高野です。
もしも。
たまに私も別の方向で考えたりします。
別の自分が存在し、それでもその自分らしく生きるのでは、と別の自分から今の自分を見たりして自分を励ましたりしてますね。