日本には、他の言語に翻訳できない言葉がたくさんあります。
その中で最近話題になったのが、
「粋である」
「野暮である」
という言葉。
この「粋だね」という言葉も「野暮だね」という言葉も不思議なパワー
を持っていて、「なぜそうなんですか?」と問いただせないオーラを
持っています。
「なぜ粋なんですか?」も「なぜ野暮なんですか?」も
「そんなことを聞いたらまさに「野暮」でしょ」というような。
で、不思議だなっと思っていろいろ考えていて出た結論。
それは、どちらも「自分が気持ちイイかどうか」に基づいている言葉
だからそうなんだっていうこと。つまり、誰かが「粋だね」と思った
とき、それはその人が「気持ちイイ」と思うかどうかであるゆえ、
他人の価値観と衝突することがない。仮にこれが「正しい・正しく
ない」の世界だとすると話は変わってきて、みんながみんなでその
事象が正しいか正しくないかに合意が必要になってちゃう。
だから、「正しい・正しくない」の議論には「なぜ」という理由づけ
が必ず必要だけど、「粋だね」には理屈は要らない。
「正しいか正しくないか」はみんなにとっての二択だけれど、
「楽しいか楽しくないか」
「気持ちイイか気持ちよくないか」
「粋か野暮か」の答えは実は人の数だけ無限にある。
そんな答えがたくさんあるところはとても日本的で美しい。
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投稿者 遙 : 2004年06月20日 06:53 | トラックバック (3)「粋」も「野暮」も、感性だけでなく、文化の香りもします。
「粋」も「野暮」も、最終的には、もちろん個人的な感性の尺度での評価かもしれませんが、その時代の、人びとに共通する美意識みたいなものでもあるように思います。
育った文化的な背景が違えば、「粋」と感じることもちがうでしょし、ある程度共通していれば、「粋」と感じることも近いのではないでしょうか。